作品と言葉

──友人が書きとめてくれた会話の記録から

(2019-01-04)

……

(小学校のころの、詩人でもあった担任の教師が)
この前個展にも来てくれたんだけど。
それで、(そのころに)詩を書くことも覚えたのね。
詩を書くことと自分が一体。
自分がつながって、表現できてる。

でもそのあと調子を崩したりして。
ものを読んだり書いたりできなくなって。
真っ白い。
そのあとまったく書いたりできなくなる。

その後、大学の寮へ。
暗室があって。写真は目の前のものをパシャって撮ればいい。
これならできるから。
写真を撮りはじめた。

言葉で表現することへのこだわり。
自分の言葉が信用できないというか、よくわからないから。
「オリジナル」ではない形で言葉っていうものを捉えられないか。

その後、インスタレーションという形を始めて。
映像と言葉をめぐることをやっていて。
5年後ぐらいに、言葉だけでやってみよう、と。
他人の筆跡をトレースするということを始めて、いまに至る。

たとえば絵を描くとか、描いている時間が楽しい、充溢しているとか、
そういう感じとは全然ちがって。
自分がいない。作品の場所から疎外されてる。

もうひとつ、最近は減ってきたんだけど、自分と自分がずれているという感じ。
言葉とのズレ。言葉を発したときにずれてるって感じる。

──なにがずれてる?

強烈なずれの感覚だけがある。
作品と自分がつながれないというか。言葉と自分がつながれないというか。
(作品を)見ている人はわかっているみたいなんだけど、自分にはわからない。見えない。
群盲象を撫でる、みたいな、そういうふうにアプローチしてるみたいな感覚があったり。
自分にとってはそういうものなのかと思って。
常に、やってみて、一拍置いて、あ、こんな感じなのか、と見返している感じ。

この前の作品は、読めない文字を書くというテーマでやってて。
3年前に中国で、滞在制作でやった作品の続き。

(そのときは)せっかく中国に行って、ほとんどわからない言葉の中に行くわけで。
10年前まで東京に住んでたんだけど、そのころは1年に1度くらい、言葉の通じないところに無性に行きたくなって、行ってほっとする、ということがあって。
自分だけが言葉の外にいる。透明なバリアの中にいるって感じが好きだった。
その感じをテーマにした。

重慶って街へ行ったんだけど。
ちっちゃい紙を持って、街のいろんなところへ行って
目を閉じて、日本語の文字を書いていく。
それを会場に展示していくということをやって。
そのほかにも仕掛け。
観客には読めない、わからない。私自身も読み取れない。

(現地の中国人の)女の子の日記。
トレースしたけど、内容はよくわからない。
会場に来る人にはそれが読めて、わかる。私だけがわからない、蚊帳の外にいて。
わかることとわからないことの非対称性。
3年前にやった。

そのあと、日本に帰ってきて、地味に駅とか喫茶店とか行って、
人が話していることを目を閉じて、あるいは左手で書きとるということをやっていて。
ぐちゃぐちゃで作品にもならないことだけど、続けていて。

この前、友だちから話を聞いて、それを録音して、鏡文字で書く。(そういう作品をつくった。)
それも、やっている間、こんなもんを展示してなにになるんだろうとか。
でも、なにかにはなるだろうという手応えというか、確信みたいなものはあって。

展示してみて、2、3日後に、こういうことかー、と。
来た人が作品を見てる。
部屋がガラス張りになってて。
人が見てる様子を後ろから見ていたら、この作品ってこういうことかっていう感触がはじめてあった。

人が見ている様子を見ることで自分を見ることができるようになったというか。
いまだによくわからないところもある。

──人を通して見た?

そうそう、それをなぞるようにというか。

──こんな感じかというのは言語化できる?

モノだというか。作品ってモノだと思ったというか。
観念的につくるので、ここがこうなったらどうなるかとか、先取りして考えているんだけど、
その感覚が今回、モノだってことはもっと突き放してもいいんだなというか。

──読み取れない文字だから、よりモノということになっている?

そうだよねそれが私の意図でもあったわけだよね。
モノって言葉の意味がちがうかもしれないけれど、言葉ってモノっぽいなという感覚があって。異物っぽいというか。

こういうことも他人に話せるようになったのは、この前の展示の後で。それまではほとんど。

友だちのメモの文字。ふっとなぞって見た。
これは自分の文字じゃない。
彼女の、その人の文字?
筆跡としてはその人の筆跡っぽい。
これってなんだろう、誰のものなんだろう。
メディアっていうものの本質があるような。
メディアって誰のものか。
それでやってみようと思ったのが最初。

実際に作品つくっているときは作業しているから、うまく似せて書こうということに必死で。

文字を書いているという状態に憧れがある。
人の文字には、その人が書いたって実感があって。
でも絶対それは自分ではできません。
自分では、書いてるって実感を持てない。

自分の文字は対象化できない。
たとえばあなたの文字は、Hさんの文字、として、まとまったものとして見える。
でも自分の文字は、まとまった表象として見えない。
これはなんだ?って。なんなのか、わからない。
自分の体の延長みたいで気持ち悪い。対象化できない。

この前の11月の展示の時に、どんどんどんどん字が小さくなった。
それがいくら鏡文字といっても、自分の文字なので気持ち悪くて、ちっちゃくなっていったという経緯がありました。
自分の書く文字には実感を捉えられないけれど、人の文字には実感を捉えられる。
それをやりたい、でも無理、みたいな。

──なんかその、人の文字をトレースするということが、その行為自体がなんというか、不思議な自分の言葉みたいなもの? 自分の言葉を持たないっていう感じとか、空っぽ感みたいなことを表しているような気がして。そういうことをなんとなく考えてたなあといま思い出した。
前、空っぽの研究をしようということを藤本さんに言ってた時があって。藤本さんもその感覚があるって。
空っぽ感を感じてるひとってあんまりいなかった。少なかったんだよね。わずかにいた。
自分の空っぽの部分のことを言う前に、藤本さんの「トレースする」って話を聞いていたから、そういう自分の虚ろな部分というのがその話に反応していたような気がして。

今回のDMでも「読めない文字」って書いていて。
なんだろうな、言葉っていうものが自分のものじゃないって感覚をすごい持ってるんだけど。
言いたいんだけど、言いたくないみたいな。しゃべりたいんだけど、意味をはっきりさせたくない、そういう気持ちがあったり。
自分のそういう部分て、……読めない文字……自分は人とはちがう世界にいるって感覚かなあ。
自分のものじゃないっていう。なんか仮にいま使ってるけど自分のものじゃないというか。
子供のころは自分の気持ちをしゃべるとか、恐ろしくて、うまくしゃべれない、ガチガチになっちゃって。


なんでそうなったというのはあるんですか?

──緊張しちゃう。すごく緊張しちゃって。

言いたいけど言いたくないってこととつながっているの?

──たぶんつながっているんだろうね。

言いたいんだけど言いたくないってこと自体は、はっきりしているのかな。言いたい言葉はある、でも口にしないっていうか。

──思い浮かんでない。いうならば、というのがあるかもしれないけれど、どんな言葉もあてはめれないというか。
いま思い出したんだけど、言葉にするってことをあきらめたことが。
言葉にすることは嘘にすることだ、って、あきらめた気がする。
忘れてた。今まで。24、5歳のころ。


そうだったんだ。

──言葉というものはこういうものか、しょうがないなあみたいな。はい。

私なんか、いまだにというか、ほぼ毎日のように、自分で、自分の言葉で書くということができるはずだとか思って、試している。
言葉ってとても相対的なもので。
「赤い傘」って書いたとして、でもそれは「青い傘」と書いてもいい。
「あかい」って言葉を使う根拠、必然性はない。どっちでもいい。
言葉に神聖さとか、重みみたいなことをくっつけると嘘っぽいというか。

自分で書くということもしたいし、そうしなければいけないと思うけど、無理、っていうことをくりかえしていて。
ただ私はこうしましたということで、ほぼ毎日のようにくりかえしているというか。あきらめられないというか。

──話を戻してもいいですか。さっき、モデルっていう話が。モデルの私ってどういう感じなんだろうなって。

モデルって、私のモデルじゃないんですよ。
構造というか、作品である構造をつくっているんですよ。
物事ってこうなっているんじゃないかっていう簡単なしくみというか、こうなっているのかなっていう。
自分がつくるものってそうなっているのかな、という。
しくみが、ずれてて。
大事なものが外部にある、見えないとか、アクセスできないとか、そういうしくみになってて。
自分がリアリティを持っているのは。そこにズレがあるとか、大事なものは外にあるんだという、そういうしくみが。そうじゃないと自分に近づけない、とか、そういう話でした。
でも「そうなんだな」って思うのは結果的なもので。
「私はいまこれを経験している」というのはなく。「私はいま認識している」というのはなくて。
ごめん、抽象的。

──大切なものは外にあってアクセスできない。なんか、面白いですね。面白いっていうか、なんか。

大切なものは見えない。って、そういう事態って、本当は意図してつくれるようなものじゃないんだよね。
だから、うん、なんか後から、意図してなかったものが見えてきたりすることもあって。
そのときの自分は気づいてなかったけど、無意識に自分が仕込んでたというか。
結果的に気づくというか。

──なんでね、インスタレーションみたいなことをするのかなって思ってたから、なんか、うん、それの答えみたいなことを聞いてる、ヒントみたいなものなんだなあって、いま。

インスタレーションはなりゆき。そうなっちゃったから続けてる、みたいな。
本当はもっと手軽になればいいなと思っている。
それこそウェブサイトみたいなものをつくればいいんじゃないかなと。
でもインスタレーション、展示で得られることもあって、まあどっちもどっちなのかなと。

──ネットだとガラスの外から人を見られない。でもネットでやっても似たようなことをするのかもしれないね。
なぜ人に見せるのか。DM受け取るじゃない、そして、なぜ作品をつくって、こうやって人を呼んで発表しているのかと考えるわけじゃん。ずっとコンスタントにやってるって感じもあるし、そんなことをいろいろ感じながら。
たぶん、見に行ったら、わかりそうっていうか、感じたり、自分の疑問のヒントになることを感じたりするんだろうけど。
それをこうやって聞いたりしていて面白いなと思った。見に行ってないのにずるい感じがした。不思議な感じで作品にかかわっている感じがして面白いなと思いました。


ではHさんは「来ないひと」のカテゴリーで(笑

自分がいるっていうところを、作品をつくっているというところに置いているので。
別になにもなくていい、ってところに置けてないっていうか。
この前の展示でだいぶ変わった気がして。
この前までは「作品をつくってます」と言うことにも、ズレがあったというか。
でも、まあ実際にやってるしなあ、って、やっと。

──「そうじゃないと自分を見れない」っていうのが、そうだろうなっていうか。
自分に見せるだけのための、ほかの誰にも見せない、そういう作品ってありますか?


誰にも見せてないものあるけど、それは成り立ってないというか。
他人に見せるっていうことがないと意味がないというか、成立しない。
自分ひとりに見せても意味ないっていうか。
といっても、人に見せてないものはもちろんたくさんある。でもそれでいいって思ってるわけじゃない。