03 「ずれ」の感覚



私自身に話を戻すと、「ずれ」の感覚や「わたし」への違和感は、ことばのうえだけでなく日常生活のなかでも、現れかたや程度は変わりながら、10代前半のころから現在に至るまでずっとあるものです。

「ずれ」の感覚。―なにがずれているのかはわからず、ただ、「ずれている」感じだけが強くある。
強いていえば、自分と自分がずれている、一致しないという感じ。
と同時に、自分の底が抜けてしまっていて、うまく「いられない」感じ。
身の置きどころがない。時間が過ごせない。

「わたし」がつねに二重になっているような違和感。
ひとに接するとき、自分が「はりぼて」で、「演技」をしているように感じ、その自分を見ている自分がいる。その意識が昂じると、ものを話せなくなる。

それらと重なりあってつきまとう、「ことば」への距離感。
ものがうまく読めない。書けない。

(これらの感覚については、こちらの友人との会話の記録のなかで、すこし話しています。)

このような、自分のなかの、また、自分自身への距離感や、自分の発する〈わたし〉構造のことばへの距離感は、私にとってだいぶ切実で、つねにその渦中にいたので、それらを距離をとって観察し、記述するなんて、長いあいだ、なかなかできないことでした。

「わたしは……」という一人称の形式をもち、かつ、フィクションではない前提のことばを、便宜的に「〈わたし〉構造のことば」と呼びたいと思います。一般的に、そのなかの「わたし」は、現実に存在するはずの発し手を指すとされています。

そして、これらの感覚は、SNSを使いはじめて以降、ひときわくっきりと感じられるようになりました。