04 かみさまの空間



10数年前、長く暮らした東京都内の家から海のそばに引っ越しました。
移った先は、近くに川が流れ、明るく、のんびりした空気の土地です。
引っ越した翌朝、窓をあけてベランダに出ると、空が広く、視界に文字情報がほとんどなく、大気の唸るような微かな音のほかは、ほぼ音がありませんでした。

近隣には友人も知人もいません。
初めて住む「マンション」が古いゆったりした造りで気に入ったこともあり、誰の視線もなく、ひとりのしずかな生活がはじまったことに、ほっとしていました。

転居して1年ほど経ったころ、どういうきっかけだったのか覚えていないのですが、Twitterを使いはじめました。
そしてすぐに、ダブルバインドの心理状態におちいりました。

一方では、なにかにつけて、Twitterに書きたくなるのです。
「こんなことがあった」「こんなことを感じた/思った」「これはこんなふうだよ」などと。
これは、幼いころ、身近なひとに「ねえねえ、……だよ」「……だった!」と、ことあるごとに思いつくままに口に出して教えようとしていたのと、おなじ衝動かもしれません。
成長するにつれてしだいに、うるさがられたり、否定的な返答をされたりすることを恐れて口には出さなくなるだけで、じつは「おとな」の年齢になった私も、ことあるごとに誰かに「言いたい」「伝えたい」衝動をもっていて、それがTwitterという仮想的な、誰でもない「相手」の空間を得て、抑圧や制限なく出せると感じ、ひっきりなしに「出したい」と思うようになったのかもしれません。

私にとってそれは、ななめ上あたりにぽっかり浮かぶ、なにもない場所に向かって「言いたい」「伝えたい」という感覚でした。
その空間をひとことで表現すると、「かみさま」という語がぴったりだと感じていました。私は宗教をもたないし、「かみさま」なんて言い方はヘンだと思いながらも、まさに「かみさまに言いたい、伝えたい」という感じだったのです。

 

「twitterでいったい誰に向かってしゃべっているんだろう、と思うことがよくある。いつもぱっと思い浮かぶのは『かみさま』という言葉。

前方のななめ上方にぽっかり空いた、ブラックホールのような(色のイメージとしては白なんだけど)他を無限に吸い込む空間があって、そこに向かってしゃべっている、そこが『かみさま』なのである。(中略)

誰かに言いたい、外に出したいというコミュニケーション欲求の宛先はどこなんだろうか。…『どこ』という問題ではなく、言語というのは本質的に『宛先的(宛先型)』である、ということか。

『宛先』については、十全な解答や解説がほしいわけではなく、なにか、先に広がっていくような感触がほしい。」

(2012年4月1日のTwitter投稿)


この「かみさまの空間」は、Twitterなどのソーシャルメディアにかぎらず、ことばを書くときすべての「宛先」なのだと、いまは思っています。
特定の誰かに宛てて手紙やメッセージを書くときでさえ、その相手の奥深くに、自分にとっての「伝える相手」「宛先」の原型となるような空間を重ねあわせ、そこに向かって書いているようにも思います。
そして、この空間は、作品の宛先の空間でもあります。

しかしその一方、Twitterにいったんなにかを書いてしまうと、目の前の画面に映っている自分が書いたはずのことばは、耐えがたいものでした。

内容が拙いとか不満だとかいう問題ではなく、ただ、そこにあらわれている〈わたし〉はこの私からは決定的にずれている。目の前に、ずれた〈わたし〉が発したらしいことばが存在している。それは静止していて、どうにもならない。そのこと自体が、その「ずれ」が確定している感じが、どうにも耐えがたかったのです。

なので、書いてはすぐに消す、また書いてはまた消す……ということをくりかえし、疲れ果て、こんなこと、ひとりでやっていて、私はいったいなにをしているんだろうと情けなくなり、その情けなさにさらに落ちこんだりしていました。