02 つづき



でも、最近、こんなふうに〈わたし〉への距離をリアルに切実に感じている私という現象は、けっこう興味深いものだと思えるようになってきました。

問題としても面白いけれど、なにより、私自身が当の私である点(つまり「当事者」である点)が面白い。
この私の視点からこの事態を眺められるのは当然のことながら私だけで、また、私は「この私の視点」からだけは絶対に距離をとれません。
そのことが、この問題ではなかなか重要だと思うのです。

また、長いあいだ、自分の感じかた―ことばのなかの〈わたし〉への距離にとどまらず、このあとに記述するような、日常的な「ずれ」の感覚―は特異なものであるように感じ、ほかの多くのひとはきっと、こんな奇妙なつらさは感じていないのだろう、もっと、「自分と自分が一致している」のだろう、と無意識のうちに前提していたのだけれど、じつはそうでもないのかもしれません。

なぜなら、まず、この距離感や「ずれ」の感覚は、ことばを使う以上、当然生じるものでもあるからです。
ことばは、それを発している「ひと」そのものではなく、そのひとがめぐらせている思考の全体や、湧きあがってくる感情そのものでもない。ことばで表現するとは、それらを「ことば」という次元でとらえ、情報としてほかの誰かに渡せるような、あらたな構成物をつくることです。そうである以上、なにかをことばにするとき、そこに距離と「ずれ」を感じるのは当然だといえます。

(一方で、ことばにすることによって、「思考」が「在ったもの」として事後的に構成されるとか、自分がなにを、どのように感じていたかに気づくといったことも、ままあることと思います。)

近年は、SNSやメールなどオンライン通信が社会生活の主要な場となり、他人に対する〈わたし〉の表象を文字言語でつくりだすことが、ごく一般的になっています。2020年春以降、ひとと直接に会える場面が極端に減り、そのような傾向はさらに昂じています。
そんないま、案外多くの人が、自分が文字で書き表している〈わたし〉への距離感や「ずれ」を感じているのかもしれない。

さらに、オンラインでのそのような「ずれ」の感覚から、逆に立ち帰るように、日常的な「わたし」という意識や自分の身体に対しても、「ずれ」や距離(解離)を感じているひとも、じつは多いのかもしれません。