a visit to remains of ‘I’ (2021)
(照明:中山奈美 @表参道画廊/東京)
毎夜 枕もとにノートとペンを置いて
わかるということが わからない
見た夢を書きとめていた
自分のことばという事態が つかめない
はじめて ひらいてみる
ことばは異物であるはずだから
なにも 思い出せない 書いたということすらも
わたしから ひきはがす なるべく 遠くへ
これは誰か ほかの人の記憶ではないのか
わたしから わたしを ひきはがす
25の夢ノート もういちど 記憶する
からだを通過させる
目を閉じて 読めない文字で 書いていく
10年以上前から、枕もとにノートとペンを置いておき、夢を見ながら目覚めるようなとき、なかば眠ったままに、その内容を書きとめていた。
書いたあと、しばらくたつうちに夢の記憶は薄れていき、やがて忘れてしまう。
「忘れてしまった事柄が書いてある」というそのノートの状態を壊すのがなんとなく惜しくて、前に書いたページはひらかないままに、書きつづけていた。
ある日、ふとノートをひらいて、読んでみた。
見事になにも思い出せない。すべてが、まるで他人が書いたもののようによそよそしく感じられる。
でも、そこにあるのは確かに私の文字なのだ。
──
「わたしの遺跡を見学する」展は、このノートから無作為で抜きだした25の夢の記録を「読めない文字」で書きうつした4つの作品から成っている。
中央の展示台に置いた帯状の作品[A]は、25の夢の記録を暗記し、目を閉じて、利き手ではない左手で、鏡文字で書いたもの。
自分の発することば(そのすがたである声や、文字)にはいつも、うまく距離がとれない。
からだの内側がずるっとのびて外に出てしまったもののようで、うまく対象化して「見る」ことができず、いったいなに/だれに属するものなのか、つかめない。
でも、目を閉じ、左手で、鏡文字で書いた文字であれば、私自身にも読みとれない。
私から離れた異物となり、「見る」ことができるかもしれない。
そのように、文字を私からできるかぎり遠ざけるために、この方法で書いた。
「夢ノート」A(2020年) W2960mm×D430mm 薄葉紙,紙,インク
正面奥の壁には、対になる2つの作品を配置した。
右側[B-1]は、25の夢の記録を鏡文字で書きうつし、上下逆さに展示する作品。
展示台は鏡になっていて、鏡のなかをのぞきこむと、文字を読むことができる。
しかし目で追ううちに、文字は鏡の下のほうへと遠くなり、読みとれなくなっていく。
「夢ノート」B-1(2021年) W640mm×H732mm×D300mm 紙,鉛筆,鏡
左側[B-2]は、右側のB-1と同じ内容を、同じレイアウトで、紙の表面に彫りこんだ作品。
遠目には白紙だが、近づくと文字があるのがわかる。
「夢ノート」B-2(2021年) W640mm×H732mm 紙
正面左には、アクリルケースに収めた、ごく薄い紙の作品[C]。
夢の記録をごく小さな鏡文字で書きうつしてある。
「夢ノート」C(2021年) W330mm×H260mm 紙,鉛筆
4つとも、肉眼では読みとりづらい小さな文字で書いている。
入口脇に単眼鏡とルーペを置き、鑑賞の補助とした。
作品タイトルはすべて「夢ノート」である。
★レビュー
水野亮さん 「ずれとしての「わたし」─藤本なほ子の鏡文字」
言水ヘリオさん 「3月の3つめの日記」 3月22日(月)の項
★追記(2021.5.22)
投稿した翌日である今日、この記事を見なおしてみたところ、
「こんなに整然と、つじつまのあった展示だっただろうか」とわれながら違和感があった。
それぞれの作品において、動機と、方法と、行為と、結果がすんなり結びついているように読める。
しかし実際は、ぐちゃっとした混沌の全体から、ひとつひとつ、思いつきで成ってきたものである。
つくっているあいだも、目の前の「これ」がなにかになるのか確信がもてず、不安定だった。
結果としてできあがった個々の作品や展示空間にも、そういうわからなさや不安定さが滲んでいたように(私としては)思う。